幸せとは何ですか?
 こう訊かれたら、私はきっとこう答えるでしょう。

 ―幸せとは、大切なものがあることです。



 紫苑は先日読んだ本の一節をぼんやりと反芻していた。
 淡い水色の表紙をめくれば、どこかカウンセリングめいた文章が羅列されているその本は
どういうわけかネズミの蔵書の中に紛れていた。

ネズミでも、こんなの読むんだ。

 意外だった。
 古典や戯曲を好んで読む同居人がこういったものを読んでいる姿はまだ見たことがない。
むしろ、毛嫌いしそうな内容だと思う。
 まあ、もともと雑多なジャンルの蔵書が揃っている部屋なので大して気にも留めなかった
のだが、ふと幸せについて考えてみようと紫苑は思考を深く沈めた。


 幸せ。…運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。
 満たされた状態を指す単語で、また人間が最も多く人生の中でそうありたいと望む状態。
 けれど形は人それぞれで、長くその状態が続くことはあまりない。

 ―では今の自分の状態は?


 そこまで考えを巡らせたところで、肩に乗ってきたハムレットに頬を舐められた。

「何、本を読めって? またお前は…たまには喜劇にしなよ」
「いや、そいつは悲劇が好きだからな、悲劇にしてやれよ。ぼーっとするよりそいつに本を
読んでやるほうが、時間の使い方としてはよっぽど賢い」
「ただぼーっとしてたわけじゃない。幸せの定義について考えていた」

 いつの間にか背後に立っていたネズミに振り向きながら答える。すると彼はとても意外
そうな顔をした。

「あんた、哲学者志望だったっけ?」
「そういうわけでもないけど。この本の影響かな」

 淡い水色の表紙を撫でる。

「ああ、ここにはそんな本も紛れていたんだったな」
「読んだんだ」
「一応」
「あんまり好きじゃないでしょ」
「そうだな、嫌いだ」

 濃い灰色の目をすっと細め、皮肉な形に口の端をつり上げてネズミが嘲笑う。

「で? 幸せは見つかったのか」
「うん」
「そりゃ驚いた。ここで生きてるやつでそんなことを考えてるのはあんたくらいだよ。
そんなものをここで得るのはまず無理だ。大体あんた、こっちに来てから何か満たされてると
感じたことがあるか?」

 食事に出てくるのはたまにカビの生えかけたパンに殺菌処理されていない水。空腹が
満たされたことはない。
 室内温度管理装置もなければ、明日を生きる保障すらされてはいない。
 けれどここにしかないものがある。ここにしかないものが紫苑の焦がれた大切なもの。

「ぼくの大切なものはきみだから。きみがここにいるだけで、ぼくの欲しいものは手に
入っている。きみがここで生きていてさえくれればぼくは」
「ストップ。……あんたさあ、真面目にそういう台詞言ってて恥ずかしくならないか?」
「全然」
「真性の天然だな」

 ネズミはやれやれと肩をすくめると、ふっと表情をほころばせた。鮮やかに咲いた華のような
印象の笑みだった。

「熱烈な告白はありがたく受け取っておくけど。その場合おれだけが生きていても仕方ない。
あんたも生きとけ、わかったな」
「当たり前だ」
「よろしい。じゃ、仕事に行ってくる」

そう言ってネズミは一度だけ紫苑の頭をさらりと撫でてから踵を返した。




紫苑を攻めっぽくしようとして玉砕しました…(汗)
いいや、玉砕したけど楽しかったから…!




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